パイドンはエリスの人で、良い家柄の出の人物でした。しかし、祖国の陥落とともに囚われの身となり、いかがわしい家にむりやり預けられたそうです。
最終的に彼は、ソクラテスがアルキビアデスかクリトンかのどちらかに頼んで、身代金を払って自由の身になりました。それ以後は、自由人にふさわしい仕方で哲学の勉強を続けました。しかし、ヒエロニュモスは『判断と保留について』の中で彼のことを奴隷と呼んで侮っています。
プラトンとは友人だったようで、プラトンの対話篇『パイドン』にその名を残しています。
ソクラテスの死後まもなく、パイドンはエリスに戻り、エリス学派を興しました。後に、メネデモスとアスクレピアデスによってエレトリアに場所を移しました。それはエレトリア学派として知られています。しかし、この学派はキケロなどによって、しばしばメガラ学派と同一視されている。
パイドンの教義はわかっていません。プラトンの『パイドン』からも推測することもできません。
著作は現存していませんが対話篇の形式だったといわれています。
セネカは「徳を得る唯一の方法は良き人々の社会に入り浸ることである」というパイドンの格言を残しています。