ソクラテス(紀元前470年頃~399年頃)は、古代ギリシャで最も有名な哲学者です。
父は大工(彫刻家)で、母や産婆をしていました。
「無知の知」を悟り、当時ソフィストと呼ばれた人々より、自分の方が優っていると考えました。
しかし、彼は無知を暴かれたソフィストたちに人心を惑わす者であると訴えられ、投獄されます。投獄されたソクラテスは「国外追放か、毒杯を仰ぐか」の選択を迫られます。魂の不滅を信じたソクラテスは自ら毒杯を仰ぎ、命を断ちました。
ソフィストとソクラテス
アテナイをはじめとするギリシャのポリスでは、一般市民の声が政策に影響を与える民主政治ができあがっていました。これは、旧来の君主政治や貴族政治が崩れ、また強敵であったペルシャとの戦争に市民軍が貢献したことなどが要因です。
市民政治では、法律や制度を市民たちの話し合いによって制定・変更しなければなりません。そのような場では、話し合いを円滑に進め、人々を説得する方法を身につけた者が有利となります。そのような方法としては、弁論術や基礎的教養があります。それらを教える教師的な立場の人々はソフィストと呼ばれました。
ソフィストの多くは諸国を渡り歩くタイプの人物でした。そのため、地方によって価値観も多様でることをわきまえていました。そのため、善悪の区分などその人次第だという相対主義的な見方を取るソフィストも少なくなかったといいます。これは、いかなる制度をとるかは自分たち次第だという、市民の自己主張にもつながります。
ソフィストたちの相対主義的な考えは、絶対的な規範などないという考えに陥る危険をもっていました。
そんなソフィストたちに挑んだのがソクラテスでした。ソクラテスは普遍的で絶対的な知を求めようとしていのです。
無知の知
無知の知とは、ソクラテスがソフィストたちとの議論の末に行き着いた彼自身の悟りをいいます。
ソクラテスの弟子プラトンが残した著作である『対話篇』によれば、ソクラテスはソフィストとの論争に明け暮れた人生を送ったとあります。
ソクラテスがそのような人生を送ったきっかけは、デルポイ神殿から降ろされた「ソクラテスに勝る知者はいない」という神託でした。当時のデルポイ神殿は、人々に関わるお告げのあることで有名でした。
その神託を友人のカイレフォンから聞かされてソクラテスは驚きました。ソクラテスは神託の真意を確かめるべく、当時の知者(つまりソフィスト)たちを訪ねてまわりました。この時、ソクラテスは自分は特に賢くもなく、自分以上に賢い人間は大勢いるはずだと考えていました。
ところが、いざ知者たちと話してみると、彼らは自分にも答えられないものがあるということさえ分かっていなかったのです。つまり、知者たちは、知らないのに知っていると思い込んでいたのです。
それに比べてソクラテスは、無知である点では彼らと同じでも、無知を自覚している分だけ自分は優っていると悟ります。
産婆術
ソクラテスの産婆術とは、彼の問答法のことをいいます。自分の母の職業である産婆の仕事にたとえて名づけたものです。
ソクラテスは、この方法は相手が自ら真理に到達するのを助けるだけとしました。
産婆術では、ソクラテスは問答を行うことにより、相手に自身の無知を気づかせます。これにより、相手は本当のこと、真の知を知りたいという欲求を生じさせます。つまり、産婆術とは「知への愛」の出産を助ける方法なのです。