聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家だった人物で、仏教振興策をとりました。聖徳太子は、渡来僧から仏教を学んで深い理解と信仰を示しました。また、大陸文化を積極的に取り入れて、政治的な混乱が続く当時の日本において、仏教思想を基本とした政治を行い統治しました。
太子は遣隋使と呼ばれる隋への留学僧を派遣し、優れた人材を招来しました。
十七条憲法
十七条憲法とは、聖徳太子が定めた十七条の法文をいいます。
十七条憲法の第一条には「一に曰く、和を以って貴しと為し」とあります。これは現代語訳すると「和を何よりも大切にして、いさかいを起こさないことを基本としなさい」といった意味になります。
続く第二条の冒頭には「二に曰く、篤く三宝を敬え」とあります。ここでいう三宝とは、仏と法と僧をいいます。つまりは仏教のことです。
更に第二条の最後には「其れ三宝に帰りまつらずは、何も以ちて枉れるを直さむ」とあります。これは「仏教を信じないのならば、一体どのように不正を正せるのだろうか」という意味になります。つまり聖徳太子は、第一条で示した「和」の拠り所を仏教に求めたのです。
三経義疏(さんぎょうぎしょ)
三経義疏とは、聖徳太子の著した三つの経典である『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』の総称をいいます。「義疏」とは現代風にいうなら注釈書を意味する言葉です。
この中で太子は山奥で坐禅して解脱を求めるような態度を批判しました。その上で、人々のために仏法を広めるように行動すべきだと説きました。
法華義疏(ほっけきょうぎしょ)
法華経についての注釈です。日本仏教の根元とされています。
聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典の一つです。また同時に、鎮護国家の観点から特に日本国には縁の深い経典とされています。
勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)
聖徳太子は、推古天皇に求められて宮中で勝鬘経(しょうまんきょう)を講義しました。これは日本で初めての経典の講義だといわれています。
勝鬘とは、インドのある国王の后の名前をいいます。勝鬘が在家のまま仏教の真理を語り、それを釈迦が認めるというのが勝鬘経の大まかな内容です。
維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)
維摩とは、インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティを指します。病気を患った維摩は、弟子達や菩薩に見舞いに来るように命じました。しかし、それぞれが以前に維摩にやりこめられているため、誰も維摩のもとへ行こうとはしませんでした。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示しました。