ユング心理学 (analytical psychology)

 ユング心理学は、分析心理学とも呼ばれます。C.G.ユングが創始した心理学の理論体系や、治療技法の総称をいいます。
 ユングは人間の人格傾向を外向型―内向型にわけ、さらに合理的機能である思考―感情、非合理機能である感覚―直感に分類するタイプ論を提唱しました。外向―内向、思考―感情、感覚―直感は、それぞれが相対する特性です。しかし、そういった相対するものを統合する過程が生きる上で必要であると唱えました。これは個性化と呼ばれ分析心理学の治療技法においては最終的な目標となります。
 またユングは、フロイトの提唱した無意識を、個人的無意識と集合的無意識とに区別しました。個人的無意識とはフロイト定義の無意識とほぼ同等のものです。一方、集合的無意識とは人類が共通して持っている心的イメージです。集合的無意識は、通常は意識出来ないが夢や精神病の妄想などで元型を通して現れるとされています。

弁証法的な治療法

 ユング心理学を用いた治療法では治療者と被治療者の対話に重きが置かれます。例えば、ユングの生きた20世紀初頭の精神医学の世界では精神病者の症状だけを重視する傾向が主流でした。しかし、ユングは被治療者の生い立ちや性格といった個性に注目しながら人間同士の関わりとして治療を進めるべきだと考えました。そのために重要となるのが治療者と被治療者の対話です。ユングは治療者と被治療者がお互いに意見を交換し、お互いを深め合ったり、高め合ったりするコミュニケーションを対話と呼びました。
 対話を通じて、お互いを高め合う手法は弁証法的な手続きと呼ばれます。弁証法とは元々は哲学の用語で、相反する意見を交わして、より高い答えを導き出そうとする手法をいいます。

心像(イメージ)

 ユングは人間の心の中に存在するイメージの意義や、そのあり方などの研究を重視しました。イメージは日本語では心像とも訳されます。心像は、意識と無意識の間に生まれるもので、心像の意味を読み取ることは、心理的な問題を分析していく上では重要です。
 ユングのいう心像とは、心の内側の活動に基づくものをいいます。そのため、心の外の世界で起きていることとの関わりは薄くなります。ただし、心像はあくまで心の内側の像として外的な世界の事実とは区別されて個人に受け取られます。そのため、心の内側にあるものと外側にある現実を混同してしまう幻覚や妄想とは異なるものなのです。
 心像が持つ意義は、具象性、集約性、直接性という観点から考えることができます。

具象性

 心像の具象性とは、人が心像(イメージ)を思い浮かべる際に、具体的な像を思い浮かべることをいいます。例えば、「恐怖」についてイメージするとします。この場合、単なる「恐怖」という概念では抽象的すぎてイメージすることは困難です。しかし、個人が抱く恐怖の対象(昆虫や高所からの風景など)の具体的な事物を心に思い浮かべれば心像を描くことは容易になります。
 心像の具象性は、ときに意識の世界の概念よりも力強く心に作用することがあります。たとえば、強く権威的な父親像を持ち、それを恐れている人がいたとします。この場合、その人物の父親とは無関係な相手に対しても自らの父親のイメージがちらついてしまい、年上であるというだけで萎縮してしまうかもしれません。これは「父親」という抽象的な概念を、自分の父親という具体的な心像が凌駕しているために起きる現象といえます。

集約性

 心像の集約性とは、人が思い浮かべる心像からは様々な解釈が可能であることを意味します。例えば、「蛇」という心像を想像したとします。仮にこの「蛇」が概念としての蛇であるならば爬虫類の動物であるということ以上の意味を持ちません。ところが「蛇」という心像であるならば、そこから更に色々なことが想像できます。蛇は旧約聖書ではアダムとイブをそそのかしたから「誘惑」を連想するかもしれませんし、脱皮を繰り返して成長する習性するからは「不死性」を連想するかもしれません。あるいは、毒を持つ種類もいるので「危険」な生き物であるという連想も可能です。このように、一つの心像はその集約性により更なる心像を想起させることが可能なのです。

直接性

 心像の直接性とは、心像が心に直接作用することをいいます。
 例えば、他者を説得する際に理念や概念を使った場合、その説得が中々上手く相手に届かないことがあります。
しかし、心の中で思い浮かべる心像は、心に対して直接響き、その人を動かす基になりえます。

 このように、心像はとても強力なものではありますが、非常に難解で、明確さを欠き、あまりに多義的に感じられる場合もあります。そのため、心理援助に際しては心像から直接的に得たものから具象性を払い落とし、明確さを与え、洗練された理念にまで高める努力が必要となります。

象徴と記号

 ユングは初め元型のことを、原始心像と読んでいました。元型とは、人間の集合無意識において、神話的性格を備えた普遍的・人類史的象徴性を備えた心像をいいます。この上でユングは「理念の特徴が、その明確さ(clarity)にあるとすれば、原始心像の特徴はその生命力(vitality)にある」と述べています。
 生命力を内包した心像は、新しいものを生み出す母胎となりえます。心像の創造的な面が顕著に認められるものが象徴です。
 ユングは象徴と記号を区別して考えました。彼によれば、一つの表現がある既知のものを代用、あるいは略称している場合、それは象徴ではなく記号です。具体的な例を挙げると「鳩=平和」や「十字架=神の愛」と考えるとき、記号的に捉えているといえます。
 一方で象徴とは、既知のものの代用ではなく、ある比較的未知なものを表現しようとして、それ以上適切な表現法が考えられないという場合をいいます。例えば、これまで知られることのなかった超越的なものや、十字架のイメージを使わなければうまく表現できない事柄の表現としてみるならこれは十字架が象徴的に使われていることになります。象徴は記号以上の意味を持ち、心に直接的に作用します。また、象徴の心理療法における重要性に気づいたユングは、古い時代の宗教儀式の象徴の意義を研究しました。そして、これらに新しい息吹を吹き込み、各個人の心の中から生じる象徴の意義を認め、その研究に専念したといえます。

ユングと統合失調症の妄想

 精神科医だったユングは精神疾患の患者たちの治療にあたるとともに疾患の研究を勧めました。そして当時、当時は不治の病とされた統合失調症(Schizophrenie)の解明と治療に一定の成果をもたらしました。
 ユングはある時、誇大妄想をともなった典型的な統合失調症の女性患者を診ることになりました。誇大妄想とは、自己を過大に評価する妄想をいい、例えば、自分を歴史上の人物などの有名人と関係が深い特別な人間であると考えたり、特別な才能を持った人間であると思い込むなどをいいます。
 ユングが出会った女性は、いつも「私はローレライです」と言っており、ユング以外の医師たちはそれを単なる妄想だと考えていました。しかし、ユングは女性を注意深く観察し、彼女を診察した他の医師が口々に「それが何を意味するのか私にはわからない」と言っているのに気づきます。そして、ユングはドイツ民謡『ローレライ』が関連しているのではないかと考えます。ドイツ民謡『ローレライ』は「それが何を意味するのか私にはわからない」という歌詞で始まっており、ユングはこれが下敷きとなって女性がローレライという妖精を連想したのだとユングは明らかにしました。
 また、その女性は「私はソクラテスの代理だ」とも言いました。これについても他の医師は誇大妄想であるとしましたが、ユングは違いました。古代ギリシアの哲学者ソクラテスが民衆に不当に告発された歴史的事実から、女性が「自分は医師によって施設や病院に入れられている。これはソクラテスのように不当に告発されているようなものだ。だから助けて欲しい」というメッセージであることを発見しました。
 このようにユングは、統合失調症患者の支離滅裂な言動や妄想にも、その人なりの理由やメッセージが隠されており、それが表れているのだという考え方を打ち立てまさした。その上でユングは、ユングは統合失調症の患者に見られる妄想の解釈に努めました。これは当時としては画期的なものであり、後の世の精神病の理解に大きな影響を与えました。

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