ロラン・バルとは、フランスの文芸批評家だった人物です。中心的な活動は文芸批評ですが、その分析は神話、モード、映画、写真など文化全般に及んでいます。
ソシュールの記号学を批評の世界に応用し、テクスト、エクリチュール、ディスクールなどの用語を流行らせました。
著作には『物語の構造分析』『零度のエクリチュール』『神話作用』などがあります。
テクスト
バルトが登場する以前は、文学作品における作者とは作品を支配する人間でした。ところが、バルトによればそれは間違いであるといいます。なぜなら、作者は言語を用いて作品を書くがゆえに、言語の枠を離れられないからです。更に、作者は何かを書く上で過去に読んだものの影響を必ず受けています。
その上で最も重要なのは、作品が作品としての意味を持つのは、書かれたときではなく読まれたときだとバルトはいいます。
同じ作品でも作者の支配を間逃れたものは、もはや作品とは呼べません。作者の支配を間逃れた作品をバルトはテクストと呼びました。彼によれば文学は作品ではなく、テクストなのです。
記号論
記号論とは、テクストが持つ、作者すら知らない意味を汲み取る方法をいいます。
人間の日常には、様々な記号が存在します。人間は常日頃から様々なメッセージを発していますが、その大半は記号を用いています。例えば、サラリーマンが背広を着るのは真面目さを示す記号であるなどがそれです。
人間は、記号を意図的に用いているわけではありません。記号は人間の意図を超えたところに存在します。そのため、記号論を用いて文学を読む場合、言語だけでなく、社会のあらゆる記号を読む学問・知識が必要になります。
エクリチュール
エクリチュールとは、元々は「書く」というフランス語の名詞形をいいます。
バルトのいうエクリチュールとは、作家が言語活動においてスティル(文体)やソシュールの言うラングを乗り越えながら選び取るものであり、書くという行為そのものへの態度をいいます。
スティルとは個々人が独自の経験によって形成した言語感覚をいいます。一方でソシュールが定義したラングとは、言語共同体における社会的規約の体系としての言語であり、これは作家の創作をとりまく環境そのものを意味します。
ディスクール
ディスクールとは、元々は「話す」というフランス語の名詞形をいいます。
現代思想におけるディスクールとは、語り方やその集合(文の集合)の意味で使われ、言説とも訳されます。
バルトは、人間が接する現実はエクリチュールやディスクールそのものであると強調し、その背後に真実があるわけでないとしました。これは例えていえば、真実の愛があるわけではなく、愛というものについてのエクリチュールやディスクール(つまり共通の認識みたいなもの)があるだけであるということです。社会は完全に規定されているわけでなく、話したり書くたびに作り替えられているというのがバルトの視点なのです。