平安時代の思想

 ここでいう平安時代とは、794年に桓武天皇が都を平安京に移してから鎌倉幕府が成立するまでの期間をいいます。
 都が平安京に移される前、国内の政治は藤原氏や皇族らとの権力闘争で混乱していました。そんな中で、聖武天皇や光明皇后などの人物派、仏の力で国を護るという鎮護国家思想に力を注ぎます。朝廷の仏教化が一層推し進められ、弓削氏出身の僧である道鏡が重要されたりもしました。
 しかし、こうなると仏教勢力は政治にまで口を出すようになってきます。そこで、桓武天皇の代に、寺院が多く仏教勢力の影響が大きい奈良の地を離れて、政治を立て直そうと計画します。都が長岡京へと移されますが洪水や疫病が相次ぎ十年で頓挫。最終的に都は平安京へと移ります。
 桓武天皇は、平安時代以前に伝わった仏教である南都仏教とは一線を画しつつ、山林で修行する僧には援助を惜しまないなどして仏教界に新しい秩序をつくっていきます。

最澄と空海

 以上のような流れの中で、平安時代の仏教に大きな影響を与えたのが最澄と空海です。804年、二人は遣唐使として同じ船で唐に渡ります。そして、最澄は天台教を、空海は真言密教を持ち帰ります。
 最澄は比叡山を天台宗の道場として、そこに大乗戒壇を開く許可を朝廷に求めます。これは南都仏教の激しい反発を受けましたが、空海の没後に認められました。最澄の教えは円仁といった人物などによって以後受け継がれていきます。一方で、空海は高野山に東寺を朝廷から賜って、ここに鎮護国家を請け負う道場を開きます。
 当初はこの流れに反発していた南都仏教側も、徐々に教学研究などで交流し、新しい仏教を受け入れていきました。

浄土信仰と末法思想

 平安時代も中期に入ると、浄土信仰が盛んになります。浄土信仰とは、来世での成仏を願って阿弥陀如来の極楽浄土への往生を説く教えです。
 特に1052年に世界が末法の世に入るという末法思想が広がると、浄土信仰は人々の心を捉えていきます。末法思想とは、釈迦の死語2000年が経つと仏法が衰退して、世が乱れるという思想をいいます。
 この流れの中で、源信の著した『往生要集』は浄土念仏の手引書として広く読まれるようになります。
 また、この時代には空也や良忍といった僧侶も活躍し、その後の時代の様々な仏教信仰の展開へと繋がりました。

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