法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶です。元々は天台宗の僧侶として出発した人物ですが、後に浄土宗を確立させました。
彼は、美作(岡山県)の豪族の家の出身で、9歳のとき家族が夜襲を受け、父を喪います。その際、菩提寺の院主であった叔父の僧侶に引き取られます。13歳の頃、比叡山延暦寺に入り、2年後に授戒して出家しました。
専修念仏奉じる浄土宗を開いたのは43歳のときです。これにより法然は比叡山を下りて、念仏の教えを広めました。
浄土宗
浄土宗とは法然が開いた宗派で、専修念仏を教義の中心に据えています。
浄土宗の専修念仏とは、「南無阿弥陀仏」と念仏すれば誰でも往生できるという教えをいいます。阿弥陀仏の名を称えるので称名念仏ともいいます。念仏を称えれば誰でも往生できるという考えに法然が至った背景には、どんな劣った人間でも救われなければならないという願いがありました。
専修念仏の考えは民衆に受け入れられ、広まっていきます。ところがこれに従来の仏教界は激しく反発します。1205年には、法然が浄土宗の戒律ないがしろにしていると批判する文書である『興福寺奏上』が朝廷に提出されます。この文書の草案は法相宗の貞慶が制作しました。
選択本願念仏集
『選択本願念仏集』とは、法然が専修念仏の教えをまとめた著作をいいます。ここでいう「選択」とは、阿弥陀仏が無数にある仏教の行の中から本当に必要なものだけを選び取り、他を捨てたことを意味します。
『選択本願念仏集』では、末法においては称名念仏だけが正しい行だとしています。その上で、聖道門を捨てて浄土門に入り、念仏の修行を行うべきだとされています。
聖道門と浄土門
法然は仏教を聖道門と浄土門に分けました。
聖道門は戒律を守ったり、厳しい修行に打ち込む聖者の仏道で、自力によって悟りを開く修行をいいます。ところが、現実の人の心は散漫だから聖道門では救われないと法然はいいます。
そうなると万人救済のためには誰にでもたやすく行える修行が必要です。称名念仏は阿弥陀仏によって選ばれたものであり、これを法然は浄土門と呼びました。
多念義と一念義
法然は、「南無阿弥陀仏」という6文字を1日最低1万回称えることを目安としました。このように念仏を何度も数えるべきという立場を多念義といいます。
しかし、法然の弟子の中には念仏の回数で往生できるかが決まるわけではなく、一回の念仏でも十分だと主張する者が現れます。このような立場を一念義といいます。
法然は往生できるかは念仏の回数で決まるわけではないと認めつつも一念義を否定しました。なぜなら、一念義の教えを拡大解釈すると一度だけ念仏すれば、後は何をしても構わないことになってしまい、堕落を招きかねないからです。