マルティン・ハイデガー

 マルティン・ハイデガーはドイツの哲学者で、フッサールの現象学を発展させ、存在の意味を問う独自の思考を展開しました。20世紀を代表する重要な哲学者の一人とされています。
 代表的な著作には『存在と時間』があり、これは第二次世界大戦後のフランス実存主義者たちに大きな影響を与えました。

現存在

 ハイデガーは著作『存在と時間』の目的は「存在一般の意味」の究明にあります。ここでいう存在とは、ありとあらゆる存在者の存在、つまり「ある」とはどういうことなのかを意味します。その上で、ハイデガーは人間の存在を現存在という言葉で呼びました。
 現存在は、事物や道具などの存在者と異なって、実存として世界内存在するとされます。
 更にハイデガーは、現存在の存在構造がきちんと分析されてはじめて、本題である存在一般を考察できるとしました。

道具的関連と世界内存在

 日常生活を送る上で人間は道具を用いて何かを行います。
 すべての道具は「目的―手段」のネットワークで結ばれています。例えば、包丁で野菜を切るという手段を用いるのは鍋やフライパンで調理するという目的があるからです。また、鍋やフライパンで調理するという手段は完成した料理を皿に盛るという目的を持っています。このような道具同士の関連が道具的関連です。
 全ての道具は、現存在(つまり人間)のためにあるので、道具的関連の最終目的は現存在になるといえます。
 ハイデガーは料理や建築など様々な系列に道具的関連をまとめたものを「世界」と呼びました。現存在である人間は、世界の中で道具を使用して生きています。逆を言えば、世界の外側では存在ができません。以上のことから現存在は世界の中でしか生きられない世界内存在といえるのです。

ハイデガーの思想の影響

 すべての道具的関連の最終目的が現存在であったとしても、日常の現存在は取り替え可能であるといえます。例えば、作った料理を自分以外の現存在が食べることは可能ですし、建てられた家に別の人が住むことも可能です。
 そこで問題となるのは、本来掛け替えのない存在である自分自身についてです。
 誰かが何かの分野で突出した才能を持っていたとしても、それは特定の人物に限られます。そのため、全ての現存在が掛け替えないものであるという説明にはなりません。
 誰もが持ちその人自身にしか行えないこと、つまり自分の有限性を最も示しているものは自分自身の死だとハイデガーはいいます。自分が死ぬということは誰かが代わるわけにはいかず、またそれは必ず誰にも訪れます。
 自分の死を引き受けることで、初めて現存在は取り替え不能な本来の現存在となります。
 しかし、これは同時に現存在の危うさにもつながります。人間はこの世に生まれようとして生まれるわけではなく、存在の根拠を持ちません。自分の命はいつか終わりを迎えるということに根拠づけられるのです。しかし、死によって掛け替えのなさを得たときには現存在は現存在ではありません。結局、人間は根拠を持たないことによって存在しうる存在であるといえます。
 このときに気づいたときに人間は「不安」を覚えます。
 このようにして、ハイデガーは不安という存在を哲学的に取り扱うことを可能としました。そして、彼の考えはドイツやフランスの若者の心を捉えていきました。

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