ジャン=ポール・サルトル

 ジャン=ポール・サルトルは、フランスの哲学者・作家で、フランス実存主義の第一人者である人物です。
 高等師範学校時代に後の伴侶となるボーヴォワールや、一時期行動を共にするメルロ=ポンティらと知り合います。卒業後はドイツで現象学を学びました。
 彼は行動する知識人としても知られ、「文学は飢えた子どもに何ができるのか」という文学者の責任を問いかけた言葉を残しています。
 代表作には哲学上の主著『存在と無』の他に、小説『嘔吐』、戯曲『出口なし』『蠅』などがあります。

無化

 ドイツに留学してフッサールやハイデガーを学んだサルトルは、哲学教師として出発します。サルトルはフッサールがいう志向性についての議論を想像力に応用しようとしました。志向性とは、意識は必ず何かについての意識であるということを意味します。
 サルトルによれば、想像力とは目の前にないものを見る力です。想像力があるから人間は目の前にあるものに縛られません。彼はこの想像力がもたらす力を無化と呼びました。別の言い方をすれば無化とは意識の前になるものを否定する働きです。こういった人間の意識のあり方を存在論として展開した著作が『存在と無』なのです。

対自存在

 人間は、自分の外側にどのような「現実」があっても、無化を行うことでそこから離れることができます。サルトルは、人間とは自分と向かい合う存在であると説き、人間のあり方を対自存在と呼びました。
 ただの物質であれば、ある方向から力が加われば、それによって動く方向や距離が決まります。一方で、対自存在である人間は意志によって動く方向などを決められます。よって、根本的には自由なのです。
 しかし、人間は自由であるがゆえに、存在に根拠がなく不確実です。したがって、人間の根拠は無であることを意味するのだとサルトルは唱えました。

自由の刑

 人間は元々自由だという考えは望ましい一方で、自分の行動を自分で決めなくてはならないことを意味しています。決め方の指針がない状態で全てを自分で決めることを負担になります。このことはまるで自由が解放ではなく、刑罰のようであるとたとえ、サルトルは人間とは「自由の刑に処せられている」と述べました。

アンガーシュマン

 自分の自由意思で状況へ自らを進んで投げ込み、行動することをサルトルはアンガーシュマンと呼びました。
 人間は誰しも自分のおかれた状況に縛られています。しかし、本質的には自由な存在です。どんな場合でも、人間はその状況の限界内で自由に行動を選択し、自由に選択した以上は自分の行動に責任を負わなければなりません。
 サルトルは「文学は飢えた子どもに何ができるのか」と問いかけています。サルトルのいうアンガーシュマンは、文学者や知識人に自らも政治・社会参加をしなければいけないという意味で受け取られるようになりました。

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