ミシェル・フーコー

 ミシェル・フーコーは、フランスの哲学者だった人物です。権力などに関する問題を批判的かつ実証的に考察し、独自の歴史哲学を築きました。
 医師の家庭に生まれた彼は、最初は心理学や精神分析を研究対象としていましたが、徐々に構造主義的な思想へと関心をシフトさせていきます。
 著作には『言葉と物』『監獄の誕生』などがあります。

生の権力

 生の権力とは、フーコーが分析した現在における権力のあり方をいいます。
 かつて権力とは絶対的な権力者が持っていました。その人物は人々の命を奪うことができ、死の恐怖により人々を服従させていました。ところが、現代における権力のあり方は、死の恐怖で人を従わせるという古典的権力観では説明できません。
 そこでフーコーは、現代の権力は特定の誰かが強制するものではなく、すべての人が従っている振る舞い方それ自体だとしました。つまり現代における権力とは、人々が自然に動くように、管理者なしで管理することができる社会の仕組みなのです。

エピステーメー

 エピステーメーとは、フーコーが提唱した哲学的概念です。
 フーコーによれば、ものの考え方の土台である言葉と「もの」の関係は異なっているとされます。この時代の考え方の特徴を彼はエピステーメーと呼びました。
 通常、知識とは連続的に徐々に進歩していくとされています。しかし、フーコーは心理学や精神医学などの人間科学は時代ごとにスタイルの断絶があるといいます。各時代の、知のスタイルがエピステーメーなのです。
 ただし、エピステーメーに関するフーコーの解釈は一貫しているわけではありません。
 初期の著作『言葉と物』においては、人の思考は、それが持つ思考体系やメタ知識構造に従うとされていました。この考え方は構造主義的な見解であり、ある時代の社会を支配するエピステーメーから解放されるためにはそれを破壊するしかありません。
 一方で後の著作『知の考古学』では、エピステーメーが存在していても、それは社会を構成する人々の生産した知識によって、様々に変化するとしました。

ディシプリン

 ディシプリンとは訓育とも訳されます。
 監獄で行わることは、犯罪者に対しての矯正であって、犯罪に対するツケを払わせることではありません。矯正においては、犯罪者の身体や動作、精神に対して管理を行い社会への適合を目指します。フーコーはそれをディシプリンという概念で表現しました。ディシプリンは、犯罪者は社会に適応した従順な身体をつくるための訓練なのです。同じような身体に対する管理は、会社の労務規則や、学校での管理スタイルなど、近代社会の多くの場所で進行しました。それは、個人を監視に対して従順にし、頑健さや粘り強さなどの機能を与え、置き換え可能な部品にしていくことをも意味していました。

パノプティコン

 フーコーは著書『監獄の誕生』の中で、功利主義の哲学者ベンサムが考案した一望監視型刑務所であるパノプティコンを引き合いに現在社会の構造を説きました。彼のこの考えは、現在における監視社会の比喩としてよく使われます。
 パノプティコンにおいては、看守は監獄中央の塔の中から、自分が見られることなく囚人を監視します。

 フーコーは、そこに没個性化した近代以降の社会の権力のあり方を見ました。権力は日常的にたえず人々を監視しますが誰か特定の個人が監視しているわけではありません。しかし、身体に対するディシプリン(訓育)を通じて人々は社会の中で適合させられていきます。日常的の小さな積み重ねとして行使されるのが近代社会の権力なのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする