栄西

 栄西は平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、日本で臨済宗を広めた人物です。
 栄西は14歳で比叡山で授戒し、主に台密を学びました。28歳のときと47歳のときの2度、宋に渡りました。2度目のときには宋で臨済宗の禅の血脈を受けて帰国しました。ちなみに血脈とは師から弟子に法が受け継がれることをいいます。そして、宋から戻った栄西は臨済宗の布教を始めます。

臨済宗

 臨済宗とは、元々、中国の禅宗の一つをいいます。栄西はこれを宋で学び日本で広めました。
 しかし、栄西が臨済宗の布教を始めると、古い仏教界は新しい勢力になることを恐れて警戒しました。1194年、朝廷は禅宗を禁止する命令を出しましたが、栄西は『興禅護国論』を著して反論します。
 その後、臨済宗は政治権力を手にした武士の間に広まっていきます。1199年、栄西は鎌倉にて北条政子と二代将軍源頼家の帰依を受けました。
 1202年、頼家の支援を受けて栄西が京都に建仁寺を建てると、朝廷も禅宗を許可することとなります。

公案禅(看話禅)

 臨済宗では、坐禅に公案を組み合わせて修行を行います。
 公案とは、修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のことをいいます。一般的には禅問答とも呼ばれます。
 修行者は師から公案を課題として受け取ると、坐禅によって雑念を捨てながら、その解決に取り組みます。そして、自分なりの答えを見つけたら、師に確認してもらいます。
 公案はそもとも論理的に答えを導き出せるものではありません。むしろ、悟りの境地にたどり着いたことを行動として師に伝えることが重要となります。このような臨済宗の禅は公案禅や看話禅と呼ばれます。

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