精神分析学 (psychoanalysis)

 S.フロイトにより創始された人間の深層心理に関する理論体系や、それらの理論を使った神経症を治療する技法です。精神分析学では、人間の心には無意識という領域があることを基本仮説とします。無意識に抑圧された神経症の原因を意識に上らせることで神経症の治療を行います。
 また、精神分析学では性欲の抑圧を神経症の原因として考えます。人間は究極的には生物であり、生物である以上は子孫を残すことが大きな課題となります。しかし、人間社会では勝手気ままに生殖活動をするわけにはいきません。人間の動物としての性欲は、人間社会に抑圧されます。抑圧された性欲が、人間にとって不都合な形で現れたものが神経症の症状であるとフロイトは考えたのです。
 更にフロイトは性欲について、元来無垢であると考えられていた子どもの性欲の存在を想定しました。これは幼児性欲説と呼ばれます。発表した当時、この説は世間から大きな顰蹙を買い、医学界からほとんど無視されました。子どもの性について語ることは、その当時のヨーロッパ社会ではタブーとされていたからです。しかし、現代において幼児性欲説はフロイトの精神分析学を考える上で重要な概念となります。

S.フロイトについて

 精神分析学の創始者であるS.フロイト(Sigmund Freud,1856-1939)は、ウィーンの神経学者です。チェコスロヴァキア領モラビア地方の小都市フライベルクにユダヤ人商人の息子として生まれました。4歳からオーストリアのウィーンに在住。1873年にウィーン大学医学に入学し、1881年に卒業しました。
 大学に入学したフロイトは、動物学に興味を持ちました。1876年から6年間、科学者のE.ブリュッケの生理学研究所で研究に携わりました。ブリュッケは、生命維持機能に関するメカニズムの発見者で「全ての生命過程は、究極的に物理学と化学によって解明できる」という信念を持っていました。ブリュッケの考えに影響を受けたフロイトは、精神活動を含むすべての生命現象は因果論で説明できると生涯に渡り考えるようになります。このような因果論的な解釈は精神分析において、神経症の症状は過去の出来事に原因があると理論づけることに繋がります。
 在学中のフロイトの夢は、一生を学問に費やし、研究者になることでしたが、金銭的な事情でその道を諦めることになります。結婚資金が必要だったこと、研究室の将来性の無さや給料の安さ、実家の破産と妹や弟の扶養などが主な理由です。これらの事情からフロイトは医者として開業するためにウィーン総合病院で働く医師となります。
 ウィーン総合病院での経験などを経て、フロイトは1886年に開業医となります。そこでフロイトは初めて自分の患者として神経症(当時はヒステリーと呼ばれていました)の患者と関わります。検査の結果、患者の身体に器官的損傷はありませんでした。これによりフロイトは、ヒステリーは心理的なものが原因であると確信します。
 その後、フロイトは長年の友人であるJ.ブロイアーが治療した症例に興味を持ち、彼との共同研究とその公表を提案します。その時の症例がアンナ・Oです。彼女の治療からブロイアーはカタルシス法を考案します。カタルシス法とは、過去の苦痛に満ちた体験を、恐怖などの抑圧された記憶を自由に表現することでは症状を除去する方法です。このカタルシス法は、その後のフロイトの治療方法に大きな影響を与えました。
 考え方の違いからブロイアーと袂を分かったフロイトは、治療において様々な技法を試します。初めは、暗示をかけて記憶を回復する催眠療法を用いましたが、次第に放棄します。その後、額を押して話しかけて記憶を取り戻させる前額法を経て、頭に浮かんだことを自由に語らせる自由連想法の使用を開始。精神分析療法を確立します。
 精神分析療法を確立したフロイトの元には賛同者が集い始め、フロイトの理論は次第に広まっていきます。1902年にはA.アドラーらが参加して精神分析に関する研究会合「心理学水曜会」がスタートしました。1906年に「ウィーン精神分析協会」を発足させると、C.G.ユングを中心とするチューリッヒ学派と交流を持つようになります。1908年にはザルツブルグにおいて第1回国際精神分析会議が開かれます。1909年にはアメリカ公演を行い、以後世界的に精神分析が拡大していきます。
 しかし、その後、考え方の違いからアドラーやユングとは袂を分かつことになります。その後、アドラーは個人心理学を、ユングは分析心理学をそれぞれ創始します。
 やがて、第二次世界大戦が勃発し、1938年にナチスがウィーンを占領します。フロイトは同年の6月に家族と共にロンドンへ亡命。ロンドンでフロイトは歓迎されますが、その時のフロイトは不治のガンに侵されていました。彼を蝕むガンは進行し、1939年、フロイトは主治医に安楽死を願い出て、83年の生涯を閉じました。

基本理論

 フロイトの無意識心理学の理論の基礎となっているのがメタ心理学的な考えです。「メタ」というのは「超える」「上の」「について」という意味です。しかし、フロイト自身は、とりあえず意識を扱う心理学とは別の心理学という意味で「メタ心理学」という言葉を使ったと言われています。
 メタ心理学的な観点としてフロイトは、

  • 局所論
  • 力動論
  • エネルギー経済論

 の3つを挙げています。
 またD.ラパポートは、これに加えて、

  • 構造論
  • 発達論

 を挙げています。

治療技法

 精神分析療法においては、ことばを極めて重要視します。患者を長椅子に寝かせ自由連想法を用いて自由に想ったことを喋ってもらいます。治療者は患者のことばを聴き、患者の無意識にどのような記憶や心的外傷が抑圧されているかを分析していきます。
 しかし、無意識は通常、意識に上がることはありません。そこで、重要視されるのが夢や失錯行為の分析です。失錯行為とは要するにしくじり行為のことです。言い間違いや物を置き忘れるなどが例として挙げられます。夢や失錯行為は無意識にアクセスする王道であるとされています。

他分野への影響

 精神分析学は、医療のみならず他の分野に影響を与えました。
 哲学の分野で言えば、構造主義を提唱したレヴィ・ストロースは精神分析に着想を得たと言われています。構造主義とは、人間は自由に生きているようでいて本当は「構造」に支配されているという考え方です。ここでいう「構造」とは自分には見えない思考の枠組みであり、複数のものを見たとき現れる共通のパターンです。例えば物語などで「主人公は試練を乗り越えて成長してハッピーエンドに至る」という流れはありきたりで、大抵の物語に適応できそうです。この物語の場合、「主人公が桃太郎で試練の内容が鬼退治」であっても、「主人公がヘラクレスでヘラから十二の試練を与えられ、乗り越えた」でも、基本的な物語の「構造」は一緒であると考えます。レヴィ・ストロースは構造主義という思想に至るまでには、物事には深層があるという考え方がヒントとなりました。人間の心の深層に無意識を想定する精神分析は、レヴィ・ストロースが構造主義という思想に辿り着くのに重要な役割を果たしたのです。
 また芸術の方面でいえば、精神分析はシュルレアリスムの誕生に大きな影響を与えました。シュルレアリスムとは、「超現実主義」と訳される人間が意識によって捉えられる現実世界を超えたものを追及する芸術運動です。シュルレアリスムはフロイトの提唱した無意識の概念を背景として発展しました。

精神分析への批判

 科学的理論として、精神分析は常に批判されてきました。主な批判の一つは、精神分析の概念の多くが、曖昧で、その定義や客観的測定が困難であるということです。
 また、精神分析の治療としての効果を批判したのが精神分析医のF.ガタリでした。例えば精神分析医が患者に対して「君は病気だ」と言ったとします。その場合、診察に来た者は自分が病気でなくても「自分は病気である」という意識を持つようになるというのです。このようにして精神分析は「病気である」というレッテルを張ることで診察を受けに来たものを「患者」に変えてしまうとガタリは言うのです。更に彼は、フロイトの無意識に関する理論は誰にでも可能としている点も問題としています。誰にでも適応可能な理論ならば、誰にでもレッテルを張ることが可能となります。こうして内面に悩みを秘めた人間が生産されると精神分析を批判しました。

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